時が止まってしまえばいい。
こうして、お前の前では隠せない、切なさのままに。
その衝動を抱きしめるかのように、熱斗をこの腕に閉じこめて。
過剰なスキンシップと笑われぬうちに、
熱斗がおかしいと感じ始める前に、
このまま、時が止まってしまえば、
【波打ち際】
一仕事終えて上に大きく体を伸ばせば、俺が声をかける前に、今まで待ちぼうけを食らっていた相手はすばやく反応し机まで駆け寄ってくる。その様はまるで遊んでと尻尾を振っている犬のようであり、いやむしろ犬だ、と思ってしまったらなんだかおかしくて吹き出すのを止められなかった。
「あ、なに笑ってんだよ!」
「お前が犬みたいなんだよ。」
「…どこが。」
「遊んでって顔してこっちに飛んできたところが。」
不満ですとでかでか書かれているような顔で返される問いに、つい本心で返してしまってから気づく。今のはまずいだろうと。
「そうだよ!お前が今日は空いてるって言ったからその時間に来たのに!もう一時間半もたってんだぞっ!」
やはり藪蛇だったかと、これ以上熱斗の神経を逆なでしないように心の中だけでため息をつく。どうも、熱斗という少年を前にすると気がつかないうちに本心がぼろぼろと落ちていってしまう。仕事で本心を隠すことなんてなれているはずなのに。
不満を不機嫌にパワーアップさせてこちらをじっと睨みつけるように見つめる熱斗が求めている言葉は、きっとひとつ。それを口にすれば全部無かったことにしていつものように笑うのだろう。彼は人がいいから。そして、俺はいつでもそれに甘えてばかりだ。
「悪かった。待たせてしまって。」
言ってしまえば少しの間をおいて、うん、と頷く素振りを見せると怒り顔が笑顔に変わる。
ああ、こういうのを天真爛漫というのだろうかとか考えていると、なんだか壁一枚隔てられた場所へと遠のいた心持ちになる。俺にはもうする事の出来ない笑い方。
そういえば、最初はその笑みを見せられる度に腹を立てていた気がする。何を考えているんだと。損得でしか推し量れなかったあの時の自分にとっては、理解の出来ない人間でしかなかった。あまりに無防備にさらされる素顔が妙に勘に障った。
大きく揺れていた感情が怒りではないものだったと気がついたのは、そう時間がたたないうちにだった。ただ、その笑顔がまぶしかっただけ。焦がれるように強く。
それはともかく、どうして俺が謝らなくてはならないんだ。そもそも、約束をしていたわけでもないのに。行き成り連絡してきた熱斗に、この時間なら終わっているかもしれないと可能性を告げただけで、その時間までに終わらせるともそう努力するとも告げてはいなかった。向こうが勝手に解釈してきたんだ。俺ばかりが悪いわけではないだろう。それに、努力はしたんだ。もうそろそろ来てしまうと焦りながらも、行き成り仕事を増やしてくれた社員に心中八つ当たりしながらも、それでも最大限の努力をした。こっちが労って欲しいくらいだ。
とかなんとか、そうやって責任転嫁をしてみても、結局自分が折れてしまうのは、まだ仕事が終わってないと告げたときに心底残念そうに眉を垂らしていた熱斗を見てしまったからで、終わったと分かるやいなや心底嬉しそうにしている熱斗をみたからで、あとはそれに絆されてしまう自分の所為だろう。
きっと、変わる前と変わった後の俺の最大の違いは、損得の上で何の意味もないと思っていたものに自分が動かされてしまうところだろう。いや、違うか。そういうものに損も得もあることを知ってしまった。自分の感情の中で、他人の、特に他なら無い熱斗の喜怒哀楽が、自分に与える影響を。知ってしまったら、もう終わりだった。きっと、俺が彼の笑顔に甘やかされているように、俺も彼を特別に甘やかす位置に置いてしまっている。それを熱斗が気づいているとは到底思えはしないけれども。彼にとっては自分の感情と他人の感情の繋がりなんて当然のことなのだろうから。
ひらひら目の前をちらつく手のひらに、一瞬で現実が戻ってくる。
延々続いていた思考で完璧にどこかへ飛んでいたみたいだ。
「大丈夫か?炎山。」
「すまない。大丈夫だ。」
「……ごめん。炎山疲れてるよな。それなら、俺、」
「大丈夫だ。」
いい募る熱斗に断言してみせるも、熱斗は未だ納得してないのか心配顔のままだ。
仕事後にここに来るということは、多少なりとも俺は疲れているということは予想がついてもおかしくはない気がする。だからそう言う熱斗に今更だと思う気持ちもあるけれど、熱斗らしいな、とも思う。俺に会いたいと思ってくれて、素直にその考えのままに行動してくれたのだったら嬉しい。
「本当に平気なのか?」
「平気だと言っただろう。」
「……ならいいけど。」
「でも、俺のことをそんなに心配してくれるなら、そうだな、」
「なんだよ。」
中途半端に言葉を切った俺に熱斗が首を傾げる。向けられた視線を感じながら、飲みかけのコーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がる。いついれたものだったかは覚えていないが、ぬるい。
熱斗は、たったこれだけの動作でもゆっくりだったのが悪かったのか痺れを切らして、なんなんだよ、ともう一度問いかけてくる。それには答えずにそのまま接客用のソファーへと向かい腰掛けた。そこでやっと熱斗へと視線を合わせて、二人座るには十分なスペースのあるそれの自分の隣を軽く叩けば、確かにその意図は伝わったらしく訝しげな顔をしながらも素直に俺の隣へと納まった。
「なぁ、炎山、どうしたいんだよ。」
「いや、熱斗は俺が心配らしいから、それなら俺を癒してもらおうかと思っただけだ。」
「癒すったってどうやって?」
思いついたのはちょっとした冗談と100%の本気。
熱斗に答えずにそのまま彼の腕をこちらに引いてやれば、熱斗はあっけないほどに簡単に俺の腕へと納まった。
「…癒すってこれか?」
「ああ。」
「ひとはだこいしいってやつ?」
「まぁ、そうだな。」
俺の胸に視界を塞がれている熱斗は、俺の言葉に苦笑が混じったのに気がついただろうか。
少しの時間が経てば、落ち着いたのか最初は強ばっていた熱斗の体から次第に力が抜けていく。そうして体を預けられればより強く伝わる体温がじわじわ俺の体に染み渡っていって気持ちがいい。
(どう、思われているんだろうか、この状況を、)
人肌恋しいと俺が思っていると考えているようだったが。確かに恋しいとは思っているさ。疲れていなくったって、いつだって、お前の温度ならば。
俺を、癒すことのできるのはお前だけなんだと言ったら、どう思うだろうか。俺が恋しいと思う体温は熱斗のものだけだと。驚かれる、という可能性がないわけでもないだろうがきっと本意に気づくということはないんだろうな。熱斗は恋情に関して鈍そうだ。
熱斗の鈍さと自分に小さく笑えば、熱斗が伏せていた顔を上げてどうしたんだと目で訴えてくる。そんな小さな振動ですら伝わる近さにいるんだと思ったら、知らず抱きしめる力が強くなってしまった。それに、熱斗は身じろぎ幼子のように笑う。彼は未だこの腕を嫌がる素振りは見せない。
本当に無防備な奴だ。人肌が恋しくなったという理由で、この年で、しかもこんな風に抱きしめることなんて本当に稀なことに決まっているだろうに。それでも、そこにつけ込んでいるのは他でもない俺だ。
伝わってきて俺の体温と混ざる熱斗のそれはひどく心地よくて癖になりそうで、嬉しいのに辛い。
「少しは癒されたか?」
「ああ。」
「よかった、よかった。」
あははと笑いながら軽くぽんほんと俺の背中をたたく。その手の温度が背中のそれと同じ気がして、切ない気持ちになる。ほんの短い時間で、彼の体温は俺のどこまで染み込んだのだろうか。
熱斗の態度にもう終わりの時間が近づいていると感じる。感情の重さに潰されるままに瞳を強く閉じれば、じんわりとした光が広がっていた。今にも消えそうな、けれども、どこか心地よく波打つ淡い淡い光が。
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